【仏教入門(3-2)】ブッダが悟りに至ったときに語った言葉とは?悟りと輪廻からの解脱の意味

ブッダ 悟り

皆さん、こんにちは。「かんどう和尚のはじめての仏教」へようこそ。 このサイトは、仏教初心者の方に向けて、やさしく・わかりやすく仏教の教えをお届けしています。

今日は、いよいよブッダが悟りに至る場面を、ブッダの伝記『ニダーナカター』にもとづいてご紹介します。

「ブッダ」という呼称は、悟りに至った者という意味なので、悟りを開く前のブッダは、修行中の人を指す「菩薩(ぼさつ)」という呼称で進めていきます。

前回のシリーズでは、菩薩が過酷な苦行をついに放棄したところまでをお話ししました。

苦行をやめて瞑想へ

苦行をやめた菩薩は、ふと、子どものころ、涼しい木陰で瞑想し、初禅に至ったときのことを思い出します。

そして、菩薩は、改めて落ち着いて座れる木を探し、その木のもとで、静かに瞑想をはじめます。

その間、心の中ではいろんな葛藤があったと伝えられています。

ですが――

その努力が実を結びます。

ついに、菩薩は悟りを開くのです。

この瞬間、ブッダ=「目覚めた人」となられたわけですね。

ブッダの言葉に伝わる感動

ここからは、呼称を菩薩からブッダに変更します。

悟りに至られたブッダは、以下のような言葉を語られたと伝わります。

「私は智慧を見出すことなく、家屋を作る者を求めて、多くの生涯にわたって輪廻を経てめぐってきた。
幾度も生まれ変わるのは、苦しいことである。
家屋を作る者よ、なんじは見られてしまった。
もはや汝は家屋を作らぬであろう。
汝の梁はすべて折れ、棟は壊れてしまった。
わたくしの心は形成作用を離れて、妄執の滅尽に到達した。」

この言葉だけ聞いても、ちょっと難しいですよね。ここで少し解説をはさみます。

まず、インドの思想では「輪廻(りんね)」という考え方があるというのを前回ご紹介しました。

生き物は、生まれては死に、また別の命として生まれ変わる。これを繰り返すのです。

そしてその生まれ変わって生存することを、ここでは「家屋」と表現しています。

でも、生まれてくれば、必ず老い、病み、そして死なねばなりません。

だから、輪廻そのものが苦しみなんですね。これは仏教だけではなく、インドの思想は基本的にこう考えます。

では、どうすれば輪廻を止められるのか?

ブッダはその原因を「妄執(もうしゅう)」にあると見ました。妄執というのは数ある煩悩の中で主要な煩悩でして、好ましいものを手に入れようとする強烈な欲求のことです。

インドの原語では「Taṇhā」といい、妄執という言葉以外にも、まるで砂漠で喉が渇いたときに水を求めるかのような強烈な欲求ということで渇愛と漢訳されたりします。貪欲もタンハーの訳語の一つです。

このタンハーこそが「家屋を作る者」、つまり私たちを輪廻させる力の源なのです。

行為(業)と輪廻のつながり

でも、具体的に妄執、タンハーがどのように輪廻につながっていくのか。

ここで鍵となるのが、「行為、行い(業)」についてのインド人の考え方です。

インドでは行為には必ず果報――つまり、好ましい結果、好ましくない結果をもたらすエネルギーがあると考えます。

日本では、行いはその場限りのことを指しますが、インドでは行いには結果をもたらすエネルギーがくっついており、それも含めて行いというのです。

このインド的な行いのことを業といいます。

善い行いをすれば好ましい結果が、悪い行いをすれば好ましくない結果がもたらされる。

このような法則があると考えられていて、この法則を「自業自得」といいます。自らの行いの結果は自らが受けるということ。

日本だと悪い行いのことだけを指しますが、本来は善い行いにより好ましい結果がもたらされることも含まれます。

そして、その行為によるエネルギーは、妄執を含む煩悩により発生する。

そう、悪い行いだけではなく、善い行いも煩悩にもとづいていると考えるのです。

そんなことないだろうと思われるかもしれませんけど、善いことをしても善い事をしたという気持ちがあったり、それにより自分に利得が生じるのではと期待したり、純粋な気持ちで善いことが行われるというのは滅多にない。

だから、行いは煩悩に根差していると仏教では考えたのです。

そして、このような煩悩の主要なものである妄執を断つことにより、行為にエネルギーが発生しないようになり、輪廻が駆動されないようになる。

このように輪廻を停止した状態を前回いったように悟りといったり、解脱といったり、涅槃といったりします。

枕経と業の関係

これは余談ですが、この業というものは枕経という習慣に結びついています。

善いことをすれば好ましい果報が、悪いことをすれば好ましくない果報がもたらされるという話をしました。

そして、その業の影響力は小さいものもあれば、来世どのようなところに生まれ変わるかという境遇まで決めてしまうような大きなものもあります。

では、来世を決める業はどのようなタイミングの行為なのか。

『俱舎論』という有名な仏教の綱要書には、命が尽きる直前の業が来世に影響を与えると論じています。

これが、故人が亡くなってすぐに行われる読経、枕経という習慣につながりました。

元々は臨終間際に行っていたのですが、今日ではその亡くなった直後に変わりました。

いずれにしても、その人の来世の幸せを願ってのものといえます。

「何が、菩薩をブッダにさせたのか?」

皆さん、疑問があられるのではないでしょうか。

結局、何が、菩薩をブッダにさせたのか?

苦行もダメだった。瞑想もずっと続けていた。

それがなぜ、ここで悟れたのか。

答えは、「智慧(ちえ)」です。

仏教でいう智慧とは、物事の良し悪しを見極めて、正しいものを選び取る判断力のこと。洞察力といってもいいですね。

私たちみんなが持っている力ですが、磨かないと、そんなにあてにならない。

実際、自身のこれまでの決断を振り返ると結構間違ったことあるじゃないですか。

卑近な例をあげると、買い物とかでもそう。そのときは、「これが必要だ」と判断して購入したけど、あとになるとそんなに要らなかったものとかありませんか?

これは正しく選び取ってないんですね。

ブッダは、この智慧を徹底的に磨き、体系化していった。

それが後の「仏道修行」と呼ばれるものになるのです。

次回予告

ということで、今回は「菩薩が悟りを開き、ブッダとなられた瞬間」についてお話ししました。

次回は――

「ブッダは、具体的に何により悟りに至ったのか?」

伝統的に伝わる二つの説について、順番にご紹介していきたいと思います。

※この記事は、Podcast番組『かんどう和尚のはじめての仏教』のエピソードをもとにしています。Podcast番組では、記事にはないアフタートークもありますので、ぜひお聴きください。