【仏教入門(3-1)】仏教の悟りと涅槃の意味とは?4つの聖者の段階も解説

悟り

皆さん、こんにちは。「かんどう和尚のはじめての仏教」へようこそ。 このサイトは、仏教初心者の方に向けて、やさしく・わかりやすく仏教の教えをお届けしています。

今回から『悟り編』という新シリーズです。

前のシリーズ「仏教誕生編」では、ブッダが生まれたところから出家して苦行を放棄したところまでお話ししました。

簡単に振り返りたいのですが、ブッダはシャーキャ族という王族出身で、次の王様になることを期待されて生まれてきましたが、自らが老いて、病になり、やがてはこの世を去る定めにあることを憂いて、出家を志します。

そして、出家者として、様々な修行に取り組み、失敗を重ねる中でようやく悟りに至ろうかというところまできました。

仏教にとって、悟りってとても大切なので、ここをピックアップして『悟り編』という新シリーズでお送りしたいと思います。

私たちの平常運転は

仏教の教えって、どんな教えですか?と尋ねられると、よくこんなふうに答えられます。「仏教は迷いを転じて悟りを開くことを目指す教えです」と。これを「転迷開悟」といいます。

ほう、なるほどと思われるかもしれませんが、皆さん、お気づきですか? この言葉は、悟っている人以外は迷っているという意味を含んでいます。つまり、仏教は「人というのは生まれながらに迷っている」と考えているということです。

では、私たちを迷わせているものは何なのか。それは、煩悩です。

煩悩まみれってよく言いますけど、煩悩というのは心の善くない働きをまとめて煩悩と呼ぶんですね。

煩悩の数は108つあるなんて、よくいわれますが、その煩悩の中で最も重いものを「明かりがない」と書いて「無明」といいます。

では、無明というものをちょっと見てみましょう。

私たちは自己中心的?

無明とは、道理を理解できておらず、自分に都合よく世界を解釈させる心の働きです。簡単にいうと、自己中心的に世界を眺めさせる働きということです。

もしも自分を中心に世界が回っているのであれば、私たちは正しく世界を眺めているといえるのですが、実際にはそんなことありませんよね。

中には、「いや私は自分中心に世界を見ていない」と思われる方もおられるかもしれませんが、本当にそうでしょうか?

例えば、お友達や家族とお花見に行く計画を立てた。何週間も前から。すごく楽しみにしていたのだけど、当日に雨が降って中止になった。そのとき、どう思いますか? 「ツイてない。なんでこんな日に限って」と思いませんか?

でも、農家の方だったり、雨を喜んでいる人もいるのですよ。雨自体は悪くもなんともない。中性な出来事なのです。

しかし、それを自分中心に見ることで善い出来事、悪い出来事にしてしまう。これが自己中心的に世界を眺めているということ。

そのことを、まるで暗闇にいるかのように何も見えていないということで「無明」というのです。現代風にいうと、認知が誤っているということです。

蛇縄麻の喩え

それを表した有名な譬喩があります。蛇縄麻の喩(だじょうまのゆ)という譬喩です。

暗闇の中を歩いていると、道端に長細いものを見つけて、思わず蛇だと思い、慌てて家に逃げ帰る。

そして翌日その場所に行ってみると、縄が一本落ちていた。蛇だと思っていたものは縄だったんですね。もっというと、縄は麻で出来ているので、麻として見るのが真実の見方。

私たちの通常の認知は、暗闇で縄を蛇と見るように誤っているということです。

そうやって、誤った認知で世界を眺めているので、苦しいのだということ。でも、それに気づいていない。暗闇にいることに気づいていない。

ブッダは、そんな私たちを歯がゆく思われていたのでしょう。

『ダンマパダ』という経典には、ブッダの言葉として、

人は何を笑い、何を喜ぶのか。
この世は常に炎に包まれている。
暗黒に包まれているのに、なぜ灯を求めようとしないのか。

と伝えられています。

明かりがないと危ないでしょうと。おちおち歩けないでしょう。このような暗闇に灯りを灯すものを「智慧」と呼びます。

この智慧によって、私たちを迷わせている煩悩が断ち切られていく。108つあると言われるような数多くの煩悩が心に起こってこないようになる状態を「悟り」というのです。

だから、よく「○○を悟った」というような言い方をされますが、悟りというのは「心の善くない働きが二度と起こらないようになった状態」といったほうが適切ではないかと思います。

悟りに至るとどうなるのか

では、悟りにいたるとどうなるのか。二度と生まれ変わらないようになります。

ちょっと唐突に感じられるかもしれませんが、インド思想では、生き物は、生まれては死に、また別の命として生まれ変わる。これを繰り返すと考えます。これを「輪廻」といいます。

しかし、生存には老い、病、死をはじめとした苦しみが付随しているので、生まれ変わるということ自体を苦しみと考えます。

そして、脱した状態、二度と生まれ変わらなくなることを仏教では「解脱」や「涅槃」と呼びます。

仏教に限らず、二度と生まれ変わらないようになるというのが、インド思想、哲学の究極の目標です。

ただし、そう考えない人もいますよね。「また生まれ変わりたい」とか「より良い生涯を送りたい」と。

それはそれでいいと仏教は考えるのです。そういう人は普通に善いことをしなさい。そうすれば、来世は善い境遇に生まれ変われますよと。

だから、仏教は二段構えなのですね。

悟りの階梯

最後に余談ですが、悟りの段階について、お話ししたいと思います。

悟りは「煩悩をすべて断ち切った状態」とお話ししましたが、煩悩が断ち切られるときって、すべての煩悩が一気に断ち切られるときと、徐々に段階的に断ち切られるときがあるといわれます。

一つでも断ち切られると、聖なる者と書いて「聖者」と呼ばれる人になります。その反対に煩悩を一つも断ち切っていない人を「凡夫(ぼんぶ)」といいます。皆さんも私も凡夫なんですね。

世の中には聖者と凡夫の二種類の人間がいるということです。圧倒的に凡夫が多いわけですが。

聖者には4種類があって、覚えなくてよいのですが、「預流」「一来」「不還」「阿羅漢」の四つです。

  • 預流(よる) … 流れに預かる。悟りの流れに入るという意味。人間界と天界を往復すること七回の間に涅槃に入る。
  • 一来(いちらい) … 一つに来る。天界と人間界を一往復する間に涅槃に入る。
  • 不還(ふげん) … 死んだら天界に生まれ変わって涅槃に入る。人間界には戻ってこない。
  • 阿羅漢(あらかん) … この生が終わると涅槃に入る。日本では「羅漢さん」とも呼ばれます。

ブッダも阿羅漢なんです。でも、阿羅漢になる人みんながブッダになるわけではないんです。

ブッダは我々が知っているお釈迦様だけ。おそらく、最初は阿羅漢とブッダに差異はなかったが、時間が経過するにつれてブッダの権威が上がり、「我々が修行した結果、ブッダになるというのは不遜なことではないか」という思いが仏教徒の中で生じた。

その結果、我々はどれだけ修行してもブッダにはなれない。阿羅漢止まりだと。

ちなみに、阿羅漢とブッダの違いは、阿羅漢はすべての煩悩を断ち切る智慧を持っているが、ブッダの智慧はもっと範囲が広くて、「一切智(いっさいち)」、つまり「全知」であるとされます。

過去、現在、未来におけるすべてのことの知識があるということなので、これは私が先生から習ったことですが、ブッダは「訪れたことのないコンビニがどこにあるのか」も知っている。

次回は、悟りに至る場面についてお話しします。

※この記事は、Podcast番組『かんどう和尚のはじめての仏教』のエピソードをもとにしています。Podcast番組では、記事にはないアフタートークもありますので、ぜひお聴きください。