【仏教入門(2-9)】ブッダはなぜ苦行をやめたのか?悟りへの道と仏教の本質を学ぶ

スジャータ―乳粥

皆さん、こんにちは。「かんどう和尚のはじめての仏教」へようこそ。 このサイトは、仏教初心者の方に向けて、やさしく・わかりやすく仏教の教えをお届けしています。

『ニダーナカター』という仏伝に基づき、ブッダの生涯をたどるシリーズ。今回は、ブッダが厳しい苦行を経て、それを手放す決断に至るまでのお話です。

これまでと同様、悟りを開く以前のブッダを「菩薩(ぼさつ)」と呼びながら、その歩みをたどっていきます。


修行の旅

前々回では、出家して間もない菩薩が、二人の修行者から瞑想の方法を学んだところまでお話ししました。

仏教では「無師独悟(むしどくご)」——つまり、師に学ばずして自ら悟ったとされる菩薩。しかし実際には、彼はアーラーラ・カーラーマという師から瞑想を学び、そのことを経典の中でも「私の師」と語っています。

それでもなお、菩薩はこう考えました。「この修行では、本当に求めている悟りには至らない」と。

そして、さらなる真理を求めて旅を続け、やがて「ウルヴェーラー」という地にたどり着きます。深い森に囲まれ、近くには托鉢ができる村がある——修行には理想的な場所でした。


ブッダの実践した苦行とは

ウルヴェーラーでは、5人の修行仲間とともに共同生活を始めます。ここで実践したのは、身体に厳しい制限を課す「苦行(くぎょう)」でした。

その内容は過酷を極め、経典には以下のような苦行がなされたことが語られています。

  • 裸で過ごす
  • 牛糞を食物とする
  • 髪や髭を自ら引き抜く
  • 座らずに立ち続ける
  • 針のむしろの上で生活する
  • 呼吸を止め続ける
  • 激しい断食を行う

断食の末には、腹の皮をつまもうとしたら背骨に触れるほど痩せ細り、トイレでしゃがむことすらできずに倒れ、体をさすられると全身の毛が抜け落ちた——そんな壮絶な様子が語られています。

このような苦行を、菩薩はなんと6年間も続けたのです。


苦行を放棄する

しかし、どれほど苦しみに身を置いても、悟りの光は見えてきませんでした。

ついに菩薩は、苦行を捨てる決断をします。近くの村へ托鉢に出て、普通の食事をとるようになったのです。

そんなある日、村の少女・スジャーターーが、ヤギのミルクで炊いたお粥を菩薩に供養します。

ちなみに、コーヒーフレッシュなどで知られる「スジャータ」という会社名は、ここから取られています。ただ、本来の発音は語尾を伸ばして「スジャーター」。インドでは語尾を伸ばさないと男性名になってしまうんですね。


このエピソードから学べること

この物語は、単なる歴史的な逸話ではありません。現代を生きる私たちにも、深い学びを与えてくれます。


学び①:「引き際を見極める勇気」

6年にわたる苦行を、潔くやめる。その決断には、並々ならぬ勇気が必要だったはずです。

たとえば企業で、新規事業に多額の投資を続けた末に「もう撤退しよう」と判断できるかどうか。あるいは、ギャンブルで多くの時間とお金を注いでしまったとき、「これ以上は無駄だ」と冷静にやめられるかどうか——。

人は「ここまでやったのに…」という思いに引っ張られて、正しい判断を鈍らせてしまいがちです。

しかし菩薩は、その“執着”を手放しました。私たちもまた、「引き際」を見極める目を養いたいものです。


学び②:「正しい方向に向けた努力」

もうひとつ大切なのは、努力の「方向性」です。

菩薩は、どれほど苦しい努力をしても、悟りには近づけないことに気づきます。

例えるなら、「東大に合格したい!」と言いながら、毎日筋トレばかりしているようなもの。努力の内容が目的とズレていれば、成果は得られません。

私たちの毎日の努力もまた、本当に自分の目指す方向へ向いているのか? ときどき立ち止まり、見直すことが大切です。


次回は、ついに菩薩が悟りを開く瞬間に迫ります。そして、「悟りとは何か?」という仏教の核心にも触れていきます。

どうぞお楽しみに。

※この記事は、Podcast番組『かんどう和尚のはじめての仏教』のエピソードをもとにしています。Podcast番組では、記事にはないアフタートークもありますので、ぜひお聴きください。