十万。
これは何の数でしょうか。
古代インドのある戦争で命を落とした人々の数です。
そして、その戦争を起こした王が、のちに仏教を世界宗教へと押し上げる存在になります。
歴史は、ときどき信じられない展開を見せます。
前回、前々回と、仏教教団の分裂についてお話ししました。
組織は分裂すれば弱くなる。これは政治の世界でも企業でもよく見られる構図です。
では、仏教はどうだったのでしょうか。
分裂ののち、衰退していったのかというと……そうではありません。
むしろ、ここから全盛期へと向かっていくのです。
なぜか。
それは、圧倒的な力を持つパトロンが現れたからです。
その名を、アショーカ王。
日本ではあまり知られていないかもしれませんが、歴史上きわめて重要な王です。
中国の梁の武帝や、日本の聖徳太子も、その政治姿勢を範としたといわれています。
奈良の「飛鳥」という地名がアショーカに由来するという説さえあるほどです。
今回は、このアショーカ王の生涯をたどりながら、仏教がいかにして国家的プロジェクトとなり、最盛期を迎えていったのかを見ていきたいと思います。
アショーカ王は、歴史上とても有名な王で、インドを初めて統一した人物として知られています。
世界史の教科書にも登場する王です。
日本史で例えるなら、もし本能寺の変が起こらず、織田信長が天下統一を果たしていたら――。
そのような存在に近いかもしれません。
いわば「インドの信長」のような人物です。
アショーカ王が属したのはマウリヤ朝という王朝です。
この王朝を築いたのは、アショーカの祖父でした。
アショーカの祖父の時代、インドは非常に不安定な状況にありました。
日本にも戦国時代がありましたが、インドはそれ以上に複雑でした。
なぜなら、日本は海に囲まれていますが、インドはそうではないため、外敵が陸路から侵入してくるからです。
しかも、その外敵がただ者ではありません。
アレクサンドロス大王。
ギリシャ・マケドニアの王で、世界史上最強の征服者の一人といわれる人物です。
歴史を見ていると、外敵の侵入に対して国の反応は大きく二つに分かれます。
- 内輪もめをして自滅する
- 外敵の存在によって内部が団結する
マウリヤ朝は、後者のパターンでした。
こうしてインド側が結束したことや、遠征の補給線が伸びすぎたこともあり、アレクサンドロス軍は次第に疲弊していきます。
長い遠征生活による兵士の疲労もあり、ついにはインドから撤退することになりました。
そして、その帰途の途中でアレクサンドロス大王は亡くなります。
ここで一つ余談があります。
アレクサンドロス軍が去ったあとも、ギリシャ人の一部はインド北西部のガンダーラ地方に残りました。
その文化的影響により、仏教史において大きな変化が起こります。
それまで、仏教では仏像は作られていませんでした。
ブッダは足跡や菩提樹などの象徴で表されていたのです。
ところが、ギリシャ彫刻の影響により、仏像が制作されるようになります。
そのため、ガンダーラ仏はギリシャ彫刻によく似た姿をしています。
こうして外敵が去ったあと、マウリヤ朝は国内統治に力を入れるようになります。
そして、その最盛期を築いたのがアショーカ王でした。
アショーカ王の時代、マウリヤ朝はインド亜大陸のほとんどを征服します。
その領土は北は現在のアフガニスタンあたりまで含まれていたと考えられており、非常に広大でした。
ここからは、アショーカ王の人物像について見ていきます。
アショーカ王は紀元前250年ごろの人物で、ブッダの死後100〜200年ほど後の時代に生きた王です。
彼はマウリヤ朝二代目の王の息子として生まれましたが、父との関係はあまり良くなかったといわれています。
若い頃は地方へ派遣されていたそうです。
しかし父が亡くなると首都へ戻り、兄弟を殺して王位についたと伝えられています。
王位継承において、最大の政敵は兄弟です。
王朝史ではよくある出来事です。
こうして王となったアショーカは、当初は非常に残忍な人物で、
「暴虐アショーカ」と呼ばれていたとも伝えられています。
転機が訪れたのは、即位から8年後。
カリンガという国への遠征でした。
この戦争で、十万人もの人々が命を落としたといわれています。
この惨状にアショーカ王は深い衝撃を受けます。
そして、この後悔を石に刻んで残しました。
これが有名なアショーカ王碑文です。
この出来事をきっかけに、アショーカ王は仏教に帰依し、仏教の教えに基づいた政治を志すようになったと考えられています。
この姿勢は後世にも大きな影響を与え、中国の梁の武帝や日本の聖徳太子も彼を理想の君主として尊敬しました。
アショーカ王の代表的な政策の一つが、ストゥーパの大量建立です。
ストゥーパとは、ブッダの遺骨を埋葬した場所に建てられた仏教建築です。
ブッダの遺骨はもともと八つに分けられ、それぞれの場所にストゥーパが建てられたと伝えられています。
しかしアショーカ王はそれを掘り出し、さらに細かく分骨して、インド各地にストゥーパを建立するという壮大な計画を実行します。
その数は、なんと8万4千。
もちろん、これは誇張でしょう。
仏教では「非常に多い数」を表す象徴的な数字として使われます。
しかし実際に、アショーカ王が建てたと考えられるストゥーパは現在も残っています。
有名なのが、世界遺産にも登録されているサーンチーのストゥーパです。
なぜアショーカ王はこれほど多くのストゥーパを建てたのでしょうか。
ある学説では、
「多くの人々を殺した罪を恐れ、功徳を積もうとした」
と考えられています。
ストゥーパ建立に関わると、死後に天に生まれ変わると信じられていたからです。
しかし私は、別の可能性もあるのではないかと思っています。
それは純粋な統治政策だったという見方です。
当時のインド社会では、王族階級にとって敵を倒すことは義務でもありました。
これをスヴァダルマ(固有の義務)と呼びます。
もちろん、アショーカ王は内心では後悔していたでしょう。
実際に碑文に刻んでいます。
しかし同時に、為政者として
「民が功徳を積める場所を各地に作る」
という公共政策としてストゥーパを建てた可能性もあると思うのです。
現代でいえば、病院や学校を建てるようなものです。
さらに、仏教の広まりを後押しした出来事がありました。
それがアショーカ王自身による仏跡巡礼です。
伝承によれば、アショーカ王は軍隊を伴ってブッダゆかりの地を巡礼しました。
- ブッダ誕生の地
- 故郷
- 悟りの地
- 入滅の地
それぞれの場所で五体投地の礼拝を行い、涙を流したと伝えられています。
クシナガラでは気絶してしまったともいわれます。
さらに、多額のお布施を行いました。
実際に、これらの聖地にはアショーカ王の石柱が残っています。
当時、インド史上屈指の王が熱心に仏教を信仰している姿を民衆が見ていたわけです。
しかも一度ではなく、何度も巡礼が行われました。
現代でいえば、有名人が政治家を応援するようなものですが、
アショーカ王の場合、その影響力ははるかに大きかったでしょう。
仏教が栄えるとき、必ずそれを支える人々の存在があります。
仏教は決して僧侶だけで成り立ってきたわけではありません。
アショーカ王のような強力な支援者がいたからこそ、仏教は広く社会に広がりました。
最後に、アショーカ王が残したものの中で、もう一つ重要なものがあります。
それはブッダの実在を示す証拠です。
長い間、ブッダが歴史上の人物なのか、それとも伝説上の存在なのかは不明でした。
しかし19世紀末、ネパールのタライ盆地でアショーカ王の石柱が発見されます。
そこには、この場所がルンビニー(ブッダ誕生の地)であると刻まれていました。
さらに碑文にはこう書かれていました。
ルンビニーはブッダ生誕の地である。
よって、この地の租税を免除し、生産の八分の一のみ納めるものとする。
アショーカ王はブッダから100〜200年後の人物です。
この短期間で架空の人物が歴史上の人物として信じられるようになるとは考えにくいため、現在ではブッダは実在の人物だった可能性が非常に高いとされています。
次回予告
次回は、インドにおいて仏教がさらに多様化し、
やがて日本にも伝わる大乗仏教がどのように誕生したのかについてお話ししたいと思います。
※この記事は以下の音声コンテンツをテキスト化したものになります。
