皆さん、こんにちは。
前回は、ブッダが弟子たちに「自らを頼りとしなさい、法を頼りとしなさい」と語られた有名な場面、「自洲法洲」「自燈明法燈明」についてお話ししました。今回は、最初にその補足です。
「自分を頼りにしなさい」という言葉を聞くと、「心の赴くままに生きればいいのか」と受け取られることがあります。しかし、ブッダの意図はそこではありません。
修行を積んでいない心は、欲望や感情に振り回されがちで、とても「頼りになるもの」とはいえません。
ブッダが示した真理を深く観る──心がその体験で変容してはじめて、自分自身を頼りにできるようになるのです。
その真理の根本は次の三つです。
- 世界は無常であること
- どこにも不変の本質はないこと(無我)
- そのような世界は苦であること
これらを“現に観る”(現観)ことで、対象に対する認知が変わり、貪りや憂いが消えていくと説かれます。
頭で「無常だ」と理解していても、好ましいものを見れば欲しくなるものです。
しかし、仏道修行によって無常を深く“目の当たりにすると”、そのものへの欲望そのものが起こらなくなっていきます。
そのように貪りがなくなった境地で、はじめて「自分を頼りにできる」。
これが「自燈明・法燈明」の意味なのです。
さて、今回の本題に入ります。
ヴェーサーリーに滞在していたブッダは、チャーパーラ霊域へ向かうことを望まれ、アーナンダと共に移動されます。この地は、かつてチャーパーラという夜叉(ヤクシャ)が住んでいた場所で、そのため「チャーパーラ霊域」と呼ばれるようになったと注釈されます。
夜叉とは精霊の一種で、仏典ではしばしば仏教を守護する存在として登場します。寺院の門にまつられる金剛力士像も夜叉の一種ですね。
チャーパーラ霊域には、ブッダのために建てられたお堂があり、ブッダとアーナンダ尊者はそこで休息されました。
席についたブッダは、アーナンダに語りかけます。
「アーナンダよ、ヴェーサーリーは楽しいところだ。ウデーナ霊域も、ゴータマカ霊域も楽しいところだ。」
ここで使われる「楽しい」と訳される語 ramaniya(ラマニーヤ) は、「美しい・魅力的」といった意味を持ちます。
これを理由に、「老いを迎えたブッダが、花や自然を愛でるようになった」と読む人もいます。しかし、この表現は悟りの直後にも使われており、文脈から見ても“世俗的な楽しさ”ではなく修行に適した土地であるという意味で用いられていると考えられます。
今回もその意で読むのが自然でしょう。
続けてブッダはこう言われます。
「もしも望むならば、寿命を超えて、この世に留まることができる。」
これは「寿命を自在に延ばすことができる」とほのめかす言葉です。後世の仏教徒の“ブッダへの尊崇の情”が反映された部分とも考えられます。
ところが、この大事な示唆をアーナンダ尊者は三度も聞き逃してしまいます。
“心が魔に取りつかれていた”ためだと経典は述べますが、これは悟りに至っていないことを象徴的に示す表現でもあります。
この経典では、アーナンダ尊者が叱責されたり非難されたりする場面が多く、弟子同士の勢力争いの名残ではないかと考えられています。
アーナンダを下がらせた後、悪魔がブッダのもとに現れます。
悪魔の正体については議論があります。
場合によっては、
- 心の煩悩(欲望・怒り・無知)が悪魔と呼ばれることもあれば、
- 異教徒を象徴的に悪魔と表現することもあります。
今回の悪魔はブッダにこう告げます。
「今こそ亡くなられるときです。」
以前、悪魔が同じように促した際、ブッダは「弟子たちが一人前になるまでは亡くならない」と告げていました。
悪魔はその言葉を引き合いに出し、
「弟子たちはすでに皆、一人前になりました。今こそが死すべきときです。」
と迫ります。
煩悩をテリトリーとする悪魔にとって、煩悩から抜け出す道を説くブッダは“天敵”です。
そう考えると、私たちは日々、悪魔の領域──欲望・怒り・無知の世界──に生きているともいえます。
気をつけていても怒りや欲望が湧いてくる。
悪魔とは、私たち自身の心の中にもいる存在なのです。
悪魔の言葉を受け、ブッダは「確かに頃合いかもしれない」と思われ、安居が終わる三か月後に亡くなる(入滅する)ことを決意されます。
次回は、魔に取りつかれた状態から正気に戻ったアーナンダ尊者が、ブッダにある“お願い”をする場面をご紹介します。
※この記事は、以下の音声コンテンツをもとにテキスト化したものになります。

