【仏教入門5-4】「自らを頼りとし、法を頼りとせよ」ブッダの最期の教えを読み解く

自燈明法燈明

皆さん、こんにちは。

前回は、アンバパーリーのもとでブッダが食事の供養を受けられたお話をしました。

お坊さんに食事を振る舞うという行為は、現代の仏教でも一般的に行われています。スリランカやタイなどの仏教国では、結婚式や葬儀の際に複数のお坊さんを招き、食事を供養する習慣があります。これは、「お坊さんに食事を供養することは大変徳の高い行いであり、それが自分たちの未来に善い影響をもたらす」と信じられているからです。

実は日本でも同じような風習が残っています。法事のあとに行う会食を「お斎(おとき)」と呼びますよね。

この「斎(とき)」という字は「時間」を意味します。お坊さんは本来、午前中までしか食事を摂らない決まりがあり、その時間内の食事を「時にかなった食事」として「お斎」と呼んだのです。つまり、法事のあとにお坊さんに食事を振る舞うから「お斎」なのですね。

しかも、古いお経や現在の南方仏教の様子を見ると、お坊さんに食事を振る舞うことこそが法事の“本体”であり、お経を読むことは“前菜”のようなものだったともいわれます。
ぜひ、このことを覚えておいてください。


雨安居とブッダの病

アンバパーリー園をあとにしたブッダは、ヴェールヴァ村で雨安居(うあんご)に入られます。

インド仏教では雨季の三か月間、草木が茂り、その上を歩くと虫たちを踏み殺してしまう可能性があるため、お坊さんたちは一定の場所に留まって修行に専念します。これを「雨安居」といいます。

このとき、ブッダは重い病にかかり、死を意識するほどの激痛に苦しめられたと伝えられています。
ご自身でも「これはまずい」と感じたようですが、心を落ち着け、悩むことなく耐え忍ばれたといいます。

普通は体調を崩すと、心まで弱ってしまいます。風邪をひくと気持ちまで沈んでしまいますよね。しかしブッダは、身体が不調でも心まで引きずられることなく、穏やかに過ごされました。

その後、弟子たちに何も告げずに亡くなるのは良くないと考え、気力を奮い立たせて回復されたのです。


「師に握拳なし」―ブッダの真の指導者像

ブッダの侍者アーナンダ尊者は、このときブッダの死を覚悟していました。回復されたブッダにこう言います。

「ブッダが亡くなられるのではないかと思い、目の前が真っ暗になりました。
しかし、ブッダが私たちに何の遺言もなく亡くなられるはずがないと信じておりました。」

するとブッダはこう諭されます。

「いまさら私に何を期待するのですか。
私はこれまで散々、教えを説いてきたではありませんか。
『師に握拳なし』――秘密の教えなど何もありません。
すべてを明らかにしてきたのです。」

さらにこう続けられます。

「私はサンガ(僧団)を率いているとか、皆が私に依存しているなどと思ったことはありません。
私はもう老年に達し、ボロボロの車が革紐でかろうじて動いているようなものです。」

この言葉には、健全な指導者の姿勢がよく表れています。
多くの人は、最初は謙虚に「成果は皆の努力の賜物」と考えますが、やがて周囲から持ち上げられるうちに勘違いしてしまう。私自身も褒められるとすぐ調子に乗るので、いつも自戒しています。ブッダの徳の高さが、この言葉ににじみ出ています。


「自らを島とし、法を島とせよ」

そしてブッダは、有名な言葉を遺されます。

「アーナンダよ、あなたたちは、自らを島とし、自らを拠り所とし、
法を島とし、法を拠り所としなさい。」

ここでいう「島」とは、パーリ語で“ディーパ(Dīpa)”といい、本来は「三角州」を意味します。洪水の際、流されそうになっても、三角州の出っ張りにつかまれば助かる――そのような「避難所」「拠り所」という意味があります。

また、ディーパには「燈明(明かり)」という意味もあるため、漢訳では「自燈明・法燈明」と訳されます。
いずれにしてもブッダは、「自分を頼りにしなさい。法を頼りにしなさい」と説かれたのです。

では、「自分を頼りにする」とは、どういうことでしょうか。
ブッダは続けます。

「身体・感受作用・心・諸々の事象、これらを熱心に観察し、
貪欲と憂いを取り除くこと。
これこそが、自分を拠り所とし、法を拠り所とするということである。」


「自らを拠り所とする」とは

仏教には、身体・感受・心・諸々の現象を観察するという瞑想法があります。これによって、いくつかの煩悩が断たれるといわれます。

  • 身体:肉体そのもの
  • 感受作用:外界の対象と感覚器官が触れたときに生じる感覚(快・不快)
  • :意識・思考
  • 諸々の事象:あらゆる現象

たとえば、心地よい音楽を聴けば心が安らぎ、黒板を爪で引っかく音を聴けば不快に感じます。この「快・不快」を生じるのが感受作用です。

私たちは、こうした内外のすべての現象に対して、いつも「貪欲」と「憂い」を抱きながら接しています。
「もっと痩せたい」「若く見られたい」という欲望や、加齢による衰えへの憂鬱――これらもその一例です。

ブッダは、人生で起こるあらゆる出来事に一喜一憂せず、心を平らかに保つことを説かれたのです。

これこそが、「自らを拠り所とし、法を拠り所とする」ことの本当の意味なのです。


次回予告

このように、ブッダは徐々に死を意識した発言をされるようになります。
そして、その死が現実のものとして確定する出来事が起こります。

そのお話は、次回いたしましょう。

※この記事は、以下のポッドキャストをテキスト化したものになります。