前回は、ヤサをはじめ多くの弟子を抱えるようになったブッダが、皆を一か所に留めるのではなく、それぞれ遊行するよう指示されたところまでお話ししました。今回はその続きです。
ブッダは、それまで過ごしたバラナシを離れて、ウルヴェーラーという地へ向かいます。ここは、かつて苦行に励んでいた際に滞在していた場所です。そこで出会ったのが、著名なバラモンであるウルヴェーラー・カッサパでした。
バラモンとは、カーストの最上位に位置する階級の人々です。カッサパは三兄弟の長兄であり、宗教家としても広く知られていました。彼らの信じるバラモン教では火を神格化し、供物を捧げて崇拝します。これは後の密教における護摩行のルーツとされます。
カッサパの住まいには、火を祀る専用のお堂がありました。ブッダはそこで一夜を過ごさせてほしいと願い出ます。カッサパは了承しますが、こう警告しました。
「実はこの火堂には、凶暴な竜王が棲んでいる。強い毒を持っており、あなたに害を与えるかもしれない」
インドで「竜」とはコブラのことを指すのが一般的です。恐ろしい大蛇がいると聞かされても、ブッダは「まったく構いません」と答え、その場に留まりました。
ブッダがお堂に入ると、竜王であるコブラは煙や火を吐いて襲いかかります。まさに「竜王」として描かれる場面です。ところがブッダも同じように煙や火を吐き返し、ついには竜王を屈服させてしまいました。
現代人から見るとファンタジーのように思えるこのエピソードですが、ここには文化的背景があります。
江戸時代の天才学者・富永仲基は「国に俗あり」と説きました。これは「その国ごとに文化的特性や習俗の傾向がある」という指摘です。
- 中国人は「文(レトリック)を好む」──漢詩の流麗さや規則性を重視し、仏典の翻訳でも美しい文体が求められました。
- 日本人は「秘匿を好む」──神社では神が直接見えず、お寺でも秘仏を隠して祀ることで有難さを感じます。
- ではインド人は?──富永は「インド人は神秘を好む」と述べました。幻術的な表現が信仰の説得力を生むのです。
現代のインド映画でも、主人公が空を飛んだり火を吐いたりする場面が珍しくありません。そうした文化的背景があるからこそ、仏典にもブッダの大蛇退治の物語が挿入されているのです。
もし仏教が他の土地で生まれていたなら、全く異なる「舞台装置」になっていたことでしょう。
さらに、この大蛇退治の話は『リグ・ヴェーダ』に記されたインドラのヴリトラ退治を意識しているのではないかと考えられます。
『リグ・ヴェーダ』はインド最古の宗教文献で、バラモン教の聖典です。そこで最も人気のあった神がインドラ(日本では帝釈天)でした。インドラが大蛇ヴリトラを打ち倒す物語は有名ですが、これがブッダの大蛇退治と重ねられている可能性が高いのです。
「インドラにできることは、ブッダにもできる」──そういうメッセージが込められていたのかもしれません。
大蛇を退治したブッダに感銘を受け、ウルヴェーラー・カッサパは信心を起こしました。そして弟二人とともにブッダの弟子になります。彼らには合わせて千人もの弟子がいましたが、その弟子たちも次々とブッダのもとで出家しました。
こうして一気に仏教教団は大きな勢力へと成長していきます。
この時、ブッダは弟子たちに次のような説法を与えました。
「比丘たちよ、すべてのものは燃えている。
眼は燃えている。眼の対象も燃えている。
耳も燃えている。耳の対象も燃えている。
鼻も、舌も、感触も、心も燃えている。
それらは貪り、怒り、愚かさによって燃えている。
だから、それらに対して厭う気持ちを持ちなさい。」
私たちは感覚器官を通して外界に触れ、好ましいものには欲望を抱き、嫌なものには怒りを抱きます。そこから執着が生まれ、苦しみが生じるのです。だから外界のものに無自覚に振り回されることをやめなさい──これがブッダの教えでした。
その後、ブッダはラージャガハ(王舎城、現代のラージギル)へと向かい、懐かしい人物と再会します。組織はさらに拡大していきます。そのお話は次回にいたしましょう。
※この記事は、Podcast番組『かんどう和尚のはじめての仏教』のエピソードをもとにしています。
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